【最愛の祖母が亡くなった悲しみの乗り越え方】どう生きるか


母方の最愛の祖母が亡くなりました
通称ばばちゃんです。

40代で乳がんになり左乳房を全摘
60代で卵巣がんになり卵巣摘出腸のヘルニアにもなったけど手術して完治
がんも両方とも完治させて、それ以降は病気もせずに好きな物を食べ、笑って生きていた
スーパーおばあちゃんです。

ばばちゃんすごいね…!



けれど、その時は突然訪れます。
皆さんの家族や、祖父母にももしかしたら…があるかもしれません。

ばばちゃんにどんな事が起こったのか、その時の対処は。
後の心のケア、どう生きていくかを綴っていきます。

目次

その時は突然訪れた(倒れる)

去年10月の終わり、母の弟である叔父から連絡が入ります。

ばばちゃんが数年前から通っている整骨院の血液検査で引っ掛かったらしく。
主治医から数値的に過剰な貧血で、おかしいから大きな病院で検査を受けた方が良いとのことでした。
紹介状を貰い、近日で予約を取ったものの自分の都合がどうしても合わないから
わたしに行って貰えないかという内容。


少し前、多汗症のお薬を貰いにばばちゃんが通っていた病院だったので
よく知っているし、行けるよと言いました

予約日までにじじばばんちに行く予定となり、
その間にばばちゃんとプチ喧嘩になったりもしていたけれど
仲直りをして予定通り、病院に行く二日前にはじじばばんちへ夫に送って貰いました

いつも気丈に振舞っているし、基本ポジティブなばばちゃんだけど
勿論モヤモヤすることがあれば不安にもなる。

わたしが行くことで安心はあっただろうけど、きっとずっと貧血に対して
気にしていたんだろうと。


特に、コロナ禍になって家から出なくなり
年齢もあってか背中が湾曲してしまって長時間立っていることが出来なくなったことで

本当に上手だった手料理も殆ど作れず
他にも短時間で済ませられていたことが、倍の時間かかるようになって
余計に貧血にも精神過敏になっていたのではと思います。


人間、他に気になることがなくて元気だったら
不思議とポジティブに考えられたりしませんか?

けれど、今まで自分で出来ていたことが出来なくなったり
制限が加わったりしてると、不安なことがより不安になりますよね。



貧血の事実も含めて、口には出さなかったけど
きっとわたしが思っている以上に凄く頑張ってくれていたんだと思います。



病院の日、担当してくれた総合内科の医師の検査結果は
早い段階で、輸血をしないと大変なことになる」でした。


本人は自覚がなさそうだったけど、
やはり極度の貧血で、通常の3分の1しか体の中に血が無いと。

本当は今日にでも入院して欲しいくらいですと言われて
ばばちゃんもわたしも、まさかの結果に言葉を失い、
入院の準備もして来ていないし一瞬固まってしまいました。

というよりばばちゃんもわたしもそこまで深刻に考えていなかった故の
動揺です。


ばばちゃんもまさか入院しなくてはいけないレベルだとは思っていなかったし
わたしも同じ気持ちで、またバイトの出勤があったり、
叔父にも伝えて予定を合わせて貰わないといけないし…で

輸血も来週以降では無理ですかと言ってみたけれど、医師は何を悠長なといった面持ちで

今すぐにでも入院して欲しいくらいなのだから、来週以降なんて無理です。
緊急を要することです。とにかく一番近い日で輸血を


と言われていよいよばばちゃんもわたしもただ事ではないと思ったのでした


他にご家族は?叔父は息子さんなんですよね、来られないって何をしてるんですかと言われたけど

叔父に関してはごもっともとはいえ、どの家族も皆揃っていると思うのは違う
「うちは母も亡くなっていて父も殆ど連絡を取りません(取っても来られない)、
だから他にはいません」と言うのが辛かったです。


わたしの出勤は融通が利くから何とかなるし、
輸血は2日間(木曜日、土曜日)だったので1日は息子である叔父に来てもらうということで
その日は終わった。某月曜日のことです。

何なら実の息子が居ないと今後の話も出来ないし。

しかし翌日、休みだった叔父が来て一部始終の話をしたけれど
土曜日もさおりが行ってくれないかと。
なんでも転職をして1年たらずで、融通が利かないとのことで。


普段から昭和初期のような「長男面」をするわりに
なぜこういうときは人任せなんだろうと耳を疑い、

何か決めることがあった時に全部孫にやらせるのは違うよね、
責任のあるものは叔父ちゃんがするべきなんじゃないの
息子がいるのに、孫が決断するなんて荷が重すぎる
」と言ったら何だか焦っていたけど。

今後もまた通院になっても叔父ちゃんはなかなか一緒には行けないし、
心配だから入院にしても良いしと言う始末。


家にいて何かあるよりは、のつもりも含まれていたんだろうけど
その時ばばちゃんは「入院なんてできればしたくない」と漏らしていて、
それでも叔父は入院に拘った。

先生が入院したほうが良いと言うなら…とか、先生が入院と言わなくても…とか。


最終的にわたしの言葉を聞いて
「もちろん、無理に入院させることはないんだけどね?」と支離滅裂。


ばばちゃんはそれで不安になってしまったのか、輸血の日まで

「ばばちゃん貧血だっていうけどそんなに深刻なのかなぁ…」とか

「普通の人の3分の1しか血がないんだよね。
ばばちゃん入院しなきゃいけないほど悪いのかなぁ」

と何度もこぼしていました。


ただの貧血だったら良かったのに、輸血をしなければいけない。
輸血だけで帰って来られるならまだ良かったのに、叔父に入院という言葉を連呼されて
入院しなければいけない程なのかと余計に怖くなってしまったのかもしれないです。


そしてもし入院したら、戻って来られないかもしれないと漠然と考えていたのかもしれない。


かくいうわたしもよぎっていました。
年齢的にもし入院してしまったら60代に大病をしたころの様に
元気に戻っては来られないかもと。

だから、「心配だから」と言われてもそれが前提でも
軽々しく入院して、なんて言う叔父に同意は出来ませんでした。

輸血をして家に帰って来て、
傍にいられるならばばちゃんが落ち着くまで一緒に居たいと思っていました。


輸血の前日、朝食が遅かったのもあって
お昼は15時ごろに軽食(パンにミルク、ココア)で済ませ、

夜もあまりお腹が空かなかったのでばばちゃんにはまた中華か何か頼む?と言われたけれど
明日、一回目の輸血が無事に終わったらお疲れ様の意味でとろう、と言って
その夜はかまぼこやネギを入れて、おうどんを煮ました。

それが最後のごはんになってしまった。

翌朝、輸血の当日にばばちゃんは倒れました。

脳梗塞、緊急搬送


起きて支度をしていたとき突然「ちゃーちゃん!」と呼ばれ(わたしの愛称です)、
どうしたの?と聞いたら「なんか目が回る」と。

それがばばちゃんの脳梗塞の症状でした。


一度その場で横になって少し経つと落ち着いたのか
「もう大丈夫」と言って態勢を起こすと、また眩暈。
起こした体が完全に回るようにふらついていたので、回転性だと思いました。

不安からか、げっぷのようなものがずっと出ていて、吐いてしまうかと思ったけれど
ちゃーちゃんがいるから大丈夫!不安にならないで安心してね、大丈夫
と声をかけながら気道をふさがないようにだけ気を付けて
体をその場に倒して、首と背中の下に座布団を入れました。



救急車呼ぶから大丈夫だよ、と言ったけど普段ならすぐにでも、「呼んで」となるばばちゃんが
「呼ばなくて大丈夫、もう少しすれば治りそう」とか「呼ぶの?」と聞いて来ました。

前述したけれど、
これで入院になったらもう戻って来られないかもしれないと思ったからかもしれないです


でもわたしは無力だし、出来る事なんて限られている。
辛くても今わたしでもできることを精一杯するしかありませんでした。


救急車を呼んで病院に向かうことになった。

わたし自身パニック一歩手前で、初めて救急車を呼んだ訳では無かったので
質問にはちゃんと応えられていました。


前日に「一応何かあったときの為に用意だけ持って行こう、
もし入院なんてしなくても良いとなれば持って帰ってくれば良いんだもん」
とわたしが言って、ばばちゃんと二人で荷造りした荷物を持って。


わたしだって荷造りなんてしたくありませんでした。
でももし仮に医師に入院してくれと言われてわたしだけ荷物を取りに戻るとなったとき、
ばばちゃんが必要とするものをちゃんと持って行ける自信が無かった。


どこに何があるかは把握しているけど、
自分の欲しいものと違う場合もあるし服もこれが良いというのがあると思ったから。

後から追加で持って行く事も出来たけど、
きっと「やっぱり不要だったね」となる荷物だろうと思っていたし、
本当に必要そうな物しか入れなかった。結局、使うことになってしまったけど。


意識は薄いながらもあったし、
救急車でもちゃんとばばちゃんは反応して軽い受け答えはしていました。

病院に着いてからはばばちゃんと引き離され、ただ不安で、夫や叔父にも連絡。

のちに脳梗塞だということを告げられました。

大腸がんも見つかる



叔父が着き、脳神経外科の医師に呼ばれ

脳梗塞だけでなく、
紹介状を持って二人で病院に行った日におこなった検査で
大腸がんも見つかったことを説明されました。


大腸がんのせいでどこからか出血している可能性が考えられ、
それが原因で貧血になっていたのだろうということと
脳梗塞も大腸がんと因果関係があるように言われました。


がんを摘出しない限り、どこかで血管が詰まりまた脳梗塞は起こりうるし、
いくら輸血をしてもどこからか出血すれば貧血も治らないと。

それ以降の経緯は割愛しますが、
手術が12月に決まりそれまで都心から神奈川近くまで通いました

片道2時間。往復で4時間。
ばばちゃんとの電話でも、日々の会話でも「もう少し近ければいつでも行き来出来るのにねぇ」
「ご飯作っても直ぐに持って行ったり出来るのにねぇ」と話していたけど、
この時ほど感じた事はなかったです。


勿論じじが病気で芳しくなかった時も、北里大学病院まで母と通ったり
母だけが行ったり、勿論ばばちゃんも行ったり叔父が行ったりしていたけど
もう母はいない。支えだった祖母が倒れてわたしは一人で行くしかなかった。
それが心細く、辛かったです。

夫も居るし、沢山協力はしてくれていて感謝はしていたけれど
血が繋がった関係ではないから(ばばちゃんと)
やはり母とは違って。父は居ても、他に家庭があってどこか他人行儀で。


寒空の下、会えた時の安心感と、また来るねと言った後の不安と、
帰路につく頃の離れた不安と・・・

都心の雑踏を抜けて帰るとへとへとで毎日行けない辛さと罪悪感。
多分、自分が高校生だったとしても高校生の体力を以てしてもしんどさはあったと思う。
泊まらずに公共機関でとんぼ返りをするというのは地味に体力を奪います


「それなら泊まればいい」と叔父は思っていたかもしれないけど
わたしにも家庭があって、当時通院させる為にじじばばんちから預かっていた病気の愛猫も居たので
そうもいきませんでした。その狭間でいつも揺れていて、正解が判らなかった。


ばばちゃんにも17時過ぎて暗がりの中わたしが家に帰るというと
普段通りに心配して「寒くて暗いんだからもううちに泊まって行ったら?」と言われて
泊まって帰ったこともありました。

でもじじが居なくなってからじじばばんちに誰もいないということが無く
必ずばばちゃん「はいはーーい」と言いながら出て来てくれた温かく明るい場所。
暗く寒い部屋に一人で入る・・・という真逆の世界は
やはり辛かった。

いつかこんな日が来ると判ってはいても、
永遠に来てほしくなかったことでした。

手術成功、のちに危篤


手術の日が来て、ばばちゃんの手術は無事に成功。

もしかしたら高齢だから、麻酔でも容体が急変するかもしれないと言われていたけれど
小さい体で頑張ってくれました。


意識が戻って来て、病室で会った時に
ばばちゃん!!と声を掛けたらゆっくり、でもしっかりと頷いてくれて。

よく頑張ってくれた、ありがとう、おつかれさま、大丈夫?って半泣きで問う声にも
静かに反応してくれて、また明日来るからねと言う言葉に、手をひらひらとしてくれました


ばばちゃんと過ごすかけがえのない時間はあっという間に過ぎてゆき、
その間に年賀状も書き、もしその間に何かあったらと毎日不安もあったけど
わたしが年賀状書き終わったよ、の知らせに
ホッとしたようにばばちゃんは「よかった」と笑い。

自分も退院したら年賀状を書かないと。でも今年は良いかな?
なんて言ったりもして。


毎年11月頃に同じところから一緒に年賀状を買うのがお決まりになっていて
母が居たころから約20年、そうして来ていました。

ばばちゃんが倒れる直前、数日前にも二人で選んで頼んだばかり。


クリスマスもお正月も、少し遅れたってばばちゃんが退院出来たら
豪華にやればいいよ、沢山美味しい物を食べようと二人で話していました

ばばちゃんも、「ほんと!早く美味しい物たべたい!!」と声を大きくして言っていた。


病院では、脳梗塞により飲み込みの力が弱まっている誤嚥予防で
とろみのある白湯しか飲ませて貰えず…

好きな物を食べることこそがばばちゃんの元気の源だったから
美味しいもののために頑張る、と言ってくれていました。

それでも、物を食べさせて貰えないことで不安はずっとあったと思います。



クリスマス、年末まで2日置きくらいに行き
年始は少し遅れて1月7日に行きました。

7日、病院に着くとわたしが生理になってしまい。

ばばちゃんとあけましておめでとうをし、
話していた時に「次、生理が終わってからでも良い?」と聞くと
「いいですよぉ~!元気で来られるときにいつでもどうぞ!お待ちしておりまぁす!」と
いつもの調子でふざけながら言ってくれました。

わたしの生理が重いことをよく知ってくれているから、
また普段から「雨や曇りの日にわざわざ来なくていいよ。晴れてる日、
体調の良い日に来られたら来てね~!!」と言ってくれていたからだと思います。

ありがとう、と笑い合ってじゃあ生理終わったらすぐ来るね、と別れたけれど
9日の夜中、叔父から「ババちゃんが危篤だ」と連絡があり

7日が、ばばちゃんと話した最後の日でした。

心肺停止から低酸素脳症に


1月9日、ばばちゃんは危篤。
でも、頑張ってくれて山は越え、意識は戻らずとも安定してくれました。

原因は寝ている間に痰が喉に詰まり呼吸が出来なくなっていた、
いわゆる窒息状態から来るものです

心肺停止になりかけていて、酸素が体に回らなくなっていました。
巡回に来ていた看護師が見つけたようだけど、
正直医療ミスなのではとわたしは思っていた

そういう時、叔父は何もしません。
何か病院側に言った後にしっかり看護をしてもらえないかも、と思うのかもしれないけど。


一命を取り留めた後もばばちゃんの意識は戻らず、
低酸素脳症になりました。


翌月の2月にも再度、危ない状態になり
今夜が峠かもしれないと医者から言われても頑張ってくれて
また一応は安定する…というのがあったけれど
やはり意識は戻りませんでした。




病院には長く居られないので4月にサナトリウムに転院になり
それから少しして、また一時危険な状態に。

その時も頑張ってくれ、安定するところまでいきました
でも意識は戻らなかった。

きっとまだ生きていたいと思ってくれていたんだろうと
わたしを置いていけないと思ってくれていたんだろうと思います。

叔父やその奥さんである叔母は
「ばばちゃんの一番は叔父」と勝手に思っていたけれど

昔から変わらず可愛い息子とは思っていても
異性の子供で気を遣って言いたいことはなかなか言えず
ママが居た頃はママ、そしてその娘であるわたしに頼っていました。

それは本人が言っていたことで、時折こぼしていたことで。
「本当は叔父に頼りたくない。ママがいてくれたら…」
と涙ながらに言っていたことも何度もありました

けれど、証拠として何かに残っている訳ではないし
そんなの嘘だと叔父夫婦が思うなら、勝手に一生思っていれば良いと。

事実はその人によって違っても、真実は一つなので。


ママが居なくなってから、よりばばちゃんとわたしの絆は深まっていたし
お互いを支えにしていた。

だからこそ、わたしともっと一緒に居たい
100歳まで生きないとねっていつも電話で言ってくれていたのを
守ろうとしてくれていたのかもしれないです。

自分に何ができるか


家族が低酸素脳症になったら、自分に何が出来るか。

正直答えは、最後まで見つからなかったです。
でも何度も何度も低酸素脳症について調べていました。

事例や、低酸素脳症から回復する可能性・見込み、
高齢でも意識が戻った…の奇跡など
とにかく毎日のように。


低酸素脳症のことをよく知らなかったわたしは、
最初、植物状態とは違うと思っていました。

でもほぼ、植物状態なんですよね。
意識は無くても、叔父が顔を突いたら顔を背けたり
足を動かしたり、痰を取られるときは顔をしかめたりする。

こんなに動くのに、何で意識は無いのか判らなかった

夫に植物状態と一緒だよ、と言われても信じられなかった。


それでも諦めたくなかったし奇跡を信じて
通える時は病院に通い、沢山話しかけました

いつもと同じように。例え返事がない一方通行でも。
きっと聞こえてると信じて。

そして、ばばちゃんが好きだったドラマの一つ
『暴れん坊将軍』を動画で撮影して耳元で流したり、

ばばちゃんが若い頃に聴いていた音楽をリストにして
耳元で流していました。


ばばちゃんの相棒と言っても過言ではない、
仲良しだった愛猫の声も動画に撮影して
わたしの声と一緒に流したりもしました。

暴れん坊将軍や音楽より、愛猫とわたしの声を流した時に
反応してくれていたような気がします。


気のせいだと言う人もいるかもしれないけど
愛猫が天国へ行ってしまった時、ばばちゃんの耳元で
テンたんがね…天国行っちゃったよ」と泣きながら言葉に詰まりながら伝えたら
ばばちゃんの目から涙が出たんです。

点滴の可能性も、と言ってもそのお話をするまで出ていなかったから。

誰に何を言われたとしても聞こえているんだと、
この時ほど感じたことはなかったです


だからもし、この記事を見ている方のご家族が低酸素脳症だったら
諦めないで沢山声をかけてあげて欲しいと思います

勿論、好きな音楽や誰かの声を録音したものでも良いです。

愛しい相手の刺激になるように。

不安になっても、信じて声をかけ続けてあげて欲しいです。

ばばちゃんが天国へ。その後の生き方


倒れてから約10カ月。意識が無くなってからは8カ月。
ばばちゃんは生きていてくれました

9月3日、じじやママがいる天国へ行ってしまいました。

小さい頃から漠然とした不安、じじとばばちゃんが死んでしまったら。
いつかくる現実が、来てしまった。


とにかく毎日泣いていました。信じたくない気持ちと、
まだ全然信じられない気持ち。

けれど、じじばばの家へ行くと現実を突きつけられて…

一時期寝られなくなって、
落ち着いていた安定剤も睡眠導入剤も少し再開していました。


今までのわたしだったら、そんな自分を責めていたかもしれないです

でも今回は、行雲流水。自然の成り行きに身を任せていました。
泣きたい時は泣いて、寝たい時に寝て。食べたい時に食べる。
笑えないなら笑わない。無理しない

自分の体調や状況に合わない人とは付き合わない。

叔父の言うことにいちいち腹を立てることも、相手にもしない。

随分と楽になりました。


それでも性格的に気にしいだったり、
神経質なところもあるから余計な事を考えてしまう時もあったけど。

そうなった時は自分のしたいことをして心を落ち着けていました。
例えばわたしなら、本を読むこと勉強をすること

何も考えずに没頭できる時間が大切なんだと、つくづく思えました
ママが亡くなった頃のわたしとは、違うと思えました。


ばばちゃんが天国へ行ってから、何度も夢で逢えています。
天国へ行く少し前にも愛猫と一緒に我が家へ来てくれました


夢と現実の狭間にいる時のことです。

愛猫の爪を研ぐガリガリとした音と、
ばばちゃんが驚いた時に言う口癖で「あらぁ…あらぁ」という言葉が聞こえて来て。

去年ばばちゃんが倒れる前に、わたしたち夫婦が戸建てを購入して
遊びに来てねと約束をしていたからその約束を果たしに来てくれたのだと思います

愛猫は我が家に8カ月居たので、ばばちゃんを案内してくれていたのでしょう。


オカルトっぽくなってしまいますが
天国へ行ってからのばばちゃんとは、普通に話したりしています。
その中の一つで、ばばちゃんが
ここより上へはまだ行かない、あんたを見てたいから」と言いました。

ここより上、というのはきっと極楽浄土のことで
天国で裁判があって極楽浄土に行けるはずなのに
わたしを見ている、見守る為にまだ行かないと言ってくれているのだと判りました。


ばばちゃんにもしもの事があった時は、天国でも交信出来るようにしてねって
二人で居る時によく言っていたからそうしてくれているのかもしれない。

だからわたしは頑張れています。


身近で、最愛の人が亡くなってしまうのは何度経験しても辛く
慣れることは無いけど、それでも日々は過ぎてゆき、生きていかなければいけません。

生きるのが辛いときもあるけれど
ばばちゃんだけでなく、じじやママが生きたかった「明日」を
わたしは夫や大切な人たちと共に生きていきます

読んでくれている方とも一緒に。


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この記事を書いた人

都内某S百合女子大出身。元エステ勤務。
昔からHPやブログをしていた知識を活かし独学でこちらを開設。
猫とフェレットとピンクが好きなアラサー人妻。
人物画や風景画、点描画などの絵が得意。(デジタルは練習中)

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